mono3yu’s blog

ただ、自分と向き合う

暗くなったかな

お題「兄弟姉妹の思い出話」

 

女3人よれば姦しい。

とは「姦」という漢字からきているようだが、漢字とは何とも言い得て妙だ。

 

さて、私たち姉妹はその漢字で表せる3人姉妹。そしてさらには年子。

今でこそ思う。両親はよく頑張ったなと。

反抗期はほぼ同じ頃に全員が突入したし、出費は少なくとも3年連続で続いた。

 

晩婚だった両親が反抗期の私たちと戦っていた年齢と今の私の年齢が同じだと気づいたとき、両親を偉大に感じたものだ。よくもこの年齢で反抗期3人と闘ったなと。

 

出費については3人が社会人になった頃に

母親から「お姉ちゃんが始まったら来年はアンタやろ。そんで妹。終わっと思ったらまたお姉ちゃんが始まって……ない財布振っても何にも出てこないのはわかってるけど、お父さんと2人でなー………あの頃はホンマにしんどかった」と聞かされたときは親の強さは本物だなと思ったものだ。

だけど当の私(たち)はそんな苦労も知らずのほほんと過ごしていて、親の脛をかじって生きているなんてことすら考えることもなく自由奔放に生きていたっけ。

 

姉はとても付き合いにくい性格をしていて、自分に向けられた他人の言葉の全てに裏があると思っている。褒めればバカにしていると怒るし、感謝の言葉は当て擦りや皮肉だと感じるらしい。

妹は人一倍プライドが高い上にこだわりも強い。何より自分は正しいと信じて疑わない。

では私はどうか。自分のことは自分ではあまりわからないのだけれど、姉妹曰く「一番狡い」のだそう。私のおかげで何度煮え湯を飲まされたことかと。

 

知らんがな。

 

とは言わない。言おうものならさらに炎上すること必定なので大人しくしている。そして私を攻撃することで姉妹間が万事丸く収まることも知っている。

 

そんな私たち姉妹の思い出。

何があるだろうか。

 

言えることは3人で行動すると最後はケンカで終わっていたということ。

断トツで姉vs私のケンカが多かった。社会人になってからも殴り合い、取っ組み合いのケンカをしたくらいだ。まぁ世間で言うところの馬が合わないってやつだ。

その次は私vs妹のケンカ。こっちは口喧嘩が主流。力で敵わない妹の武器が口だった。私から言わせてもらえるとするなら「一番狡い」のは妹なのだが。

それから姉&妹vs私のケンカ。これは始まりが姉vs私、妹vs私のケンカに残りの1人が加勢したバージョン。

 

でわかる通り、姉妹のケンカはいつもvs私だった。そしてなぜだか知らんが親に怒られるのはいつも私。

妹とケンカ→「アンタお姉ちゃんなんやから我慢しなさい!」

姉とケンカ→「なんでアンタはいつもお姉ちゃん泣かすの!」

姉&妹とケンカ→「どうせまたアンタが何かしたんやろ」

 

とりつく島もない。

 

なもんで私は割と早くから不公平と不平等と矛盾を肌で感じていたように思う。そして目立つ存在のその裏で平然と裏切る行為に耽ける存在がいることも。

 

社会人になって幾星霜。いつからか私が姉妹と連絡を取り合うこともなくなった。

 

 

こういうことを書き残したいと思ったわけではないのだが………。

もたらす人たち

お題「出会ったすごい人」

 

私の人生において

意味のない出会いはないと思っている。

 

この世界にどれだけの人間がいるのか。

実のところ私は正確な数字で把握してはいないのだけれど、まあとんでもない数の人間がいることだけはわかる。

 

まあとんでもない数の人間を分母

出会った人間の数を分子

で表すといかにその出会いが運命的であるかがわかる。ただすれ違った人ですら運命を感じてしまうのは少々病的か。。。(だけど人生を終えるまでに出会わない人もいるのだと思うと運命を感じてもいいのではないか。)

 

で、若い頃はそういうことに気づかずにいたのだが、今はその時の私に必要な出会いなのだと考えることができるようになっている。

そしてそう考えられるようになると

この出会いは私に何をもたらしてくれているのかというようなことも考えるようになる。

 

いい出会いもあれば当然そうでない出会いもあったけれど振り返ってみれば、結果どちらも自分を成長させてくれた出会いになっていたことに気づく。

 

誰もがすごい人だった。

私が持たないものを持っていた。

私が持てないものを持っていた。

それらを使って器用に、ときに不器用に生きていた。

あんな風に生きられたらどんなに楽だろう。と何度憧憬を抱いたか知れない。

 

 

私の「出会ったすごい人」は

出会った人の数だけある。

古い古い記憶の中にあったもの

お題「人生で一番古い記憶」

 

母親は専業主婦だったので本来その必要はなかったのだが、私が3歳になると保育所に放り込まれた。早くから同年代の友達と触れ合わせることと親同士の交流も兼ねてなぜか私の地元ではそうしていた。(うるさいから厄介払いされていたような気がせんでもないが…)

 

朝の送りは父親の役目。私たちを車に乗せ出勤前に保育所に届けてくれた。車のラジオから流れるナショナルの歌を今でも覚えている。そして母親は私たちを車の外から見送ってくれた。

 

帰りは母親が自転車で迎えに来てくれた。

150にも満たない小さな体が自転車の前と後ろに私と姉を乗せて家までの道。息を切らしながらそれでも鼻歌を歌っていた母親。私たちも歌いながら足を大きく後ろに振って母親に力を貸す。

 

父親が日勤から帰ってくる時間になると母親が、「お父さん帰ってくるから迎えに行こか」とみんなで手を繋いで大通りまでたった数分の道を歩いてお出迎え。父親の車を見つけるのを競った。見つけると手を振った。

大通りを少し入ったところで全員で車に乗り込み、家までのプチドライブ。

 

あの頃は当たり前の日常だと思っていたけれど振り返るときちんと愛があったんだなと思う。

 

人生で一番古い記憶の中に両親の愛を感じている。

あの飲み物なのか。

お題「〇〇をしたら花粉症が治った!」

 

花粉症には十数年前から都市伝説的な話がまことしやかにささやかれている。

“実は花粉症が一発で治る治療薬はすでに開発されている。”と。

ではなぜその薬が処方されないのか。

それは病院の儲けがなくなるから。だそうだ。

嘘かまことか。というようなことはさておき。

私の知人はヤクルトを飲み始めた年から花粉症がないらしい。それ以降花粉症の時期には毎年ヤクルトを飲んでいる。すこぶる体調が良いようだ。

 

ヤクルト。

それは現代の医者いらずなのではないかと思い始めている。

とはいえ私はまだ幸運にも花粉症とは無縁の生活を送っているのでヤクルトの出番はまだない。

上の世界にある自由

お題「もし1日だけ動物になれるとしたら、何になりますか?」

 

駐車場の場所が悪いのか車の色が悪いのか。私の車には何故か鳥のフンがよく乗っかっている。走行中にフロントガラス一面に散らばったこともあった。

 

あいつらの生活空間にはトイレという場所がない。なぜなら自分より下が全てトイレだからだ。その下に何があろうがお構いなし。きっと糞尿の生理現象を我慢するということすらしたことがないのだろう。

 

そしてあいつらの縦横無尽さ。

日本で住む我々は線路の上を人間が歩くことができないというのに、高速道路を原付が走行することができないというのに。動物園の檻の中に飼育員以外の人間が歩くことはできないというのに。サッカーの試合中に関係者ではない人間が入ることはできないというのに。入場料を払わなければ入れない場所があるというのに!入る資格がなければ入れない場所があるというのに!!

我々にはこんなにも立場で入れる場所が区分けされているというのに!!!………

 

あいつらはそういう場所のどこにでも、躊躇うことなく、羽を休めるがごとくに立ち入ることが許されるのだ。そして場所を変えたければ自分のルートで飛べばいい。

 

あたり構わず糞尿をし、行きたいところ降りたいところに渋滞や信号に捕まることなくたどり着ける。

そういう理由から

私が1日なれるとしたらなりたい動物

それは“鳥”。

 

私の居住地はそう遠くない未来に起きるとされている南海トラフ地震圏内。おそらく私が生きているうちには確実に起こる。

でもそんなことも私が鳥なら地震が起こったとしても翼がある限り、どこへでも逃げられるような気がする。飛ぶことに疲れたらたとえ陸がなくても水面に浮かぶ木が、発泡スチロールがたった一つあればいい。空が続く限り鳥の生活圏は無限だ。

 

そしてできるなら鳥のなかでもカラスがいい。雑食で何でも食べられる能力をもったカラスはきっとどんな環境でも生き残れる。木の実から死肉までありとあらゆるものを血肉にできるカラスがいい。賢さと狡さをもったカラスならきっとどんな環境にだって適応できる。

 

だから私はカラスを選ぶ。とはいえ、このお題の“1日”がそれぞれ選べる1日ならという前提の上のことなので、その1日が“明日”と言われるとまた答えは変わるのだろう。

お粗末さまでございました

今週のお題「最近飲んでいるもの」

 

んーーーー。

書くほどの何かを飲んでいるだろうか。

 

寒くなるまではルイボスティにハマっていたので職場でも休みの日でもルイボスティを持ち歩いていた。日本茶よりも私の口にあっていた。だけど何となく飽きて今は水筒に白湯を入れて飲んでいる。

 

白湯はいい。

何の味もないただの水がただ美味い。

その温かさが体内を流れていくとほっとする。

 

そして何より白湯を白湯たらしめるのは

あの保温力の高い昨今の水筒。

その能力たるや朝入れた白湯が夕方まで白湯だ。

おかげでいつでも白湯を飲むことができる。

水筒様様だな。

 

 

このネタではこれ以上話が広がらないのでこの辺で………読むに堪えない内容を読んでいただき、誠にありがとうございました。

医者いらず

今週のお題「体調が悪いときの過ごし方」

 

 

免疫が強いのか、はたまたただの阿呆か。

 

 

私はなぜかあまり体調を崩さない。大体いつも同じ調子で生きている。なので体調が悪いときが思い出になっていたりする。

 

出かけ前に、家にあった餡子を食べた時は

「なんか今日はやたらと腹がグルグル鳴るな〜」

くらいで1日を過ごし、家に帰ったときに母親から餡子が腐っていたと告げられて妙に納得した(余談だが餡子は腐ると糸をひく)。

 

接客業をしていた頃の話。ある日朝から鼻水が止まらずティッシュでかみすぎた鼻が痛くなってきた。そこで事務所内の業務に変えてもらい、両方の鼻にティッシュを詰めて仕事をしていた。するとそこへ常連客が入ってきてあられも無い姿を見られた。

 

 

風邪も流行の季節だろうが家族の誰がひこうが私だけはひかない。だけど数年に一度あるかないかのペースで流行ではない季節に風邪をひくことがある。

そして私の風邪は家族にもれなく感染るのだが、なぜか他所からもらってきた風邪よりも私から感染る風邪の方が症状が重いという。「お前の風邪はほんまに重い」とよく言われた。

免疫の強い体に入り込んで悪さをするくらい攻撃に強い菌なので、免疫の強くない体にはさぞ辛かろうということにしている。

 

 

で体調が悪いときの過ごし方なのだが、

父親はいわゆる昔人間な人だったので"病気は気合いで治す"が我が家の常識だった。

 

ケガ→舐めとけ

腹痛、頭痛の類→寝たらわからん

足つった→どうせなら魚釣ってこい

 

今でこそそりゃないぜ。とは思うけれど子供の頃はそんなこと思うはずもない。

何より父親の常識にならうと確かに擦り傷程度なら消毒なんてしなくても瘡蓋になってそのうち治ったし、腹痛や頭痛は寝て起きたら治ってた。

足がつったときは悶えるほどの痛みに一、二分耐えたら治まったから騒ぎ立てるほどのもんでもないってことを言いたかったんだということにしている。

 

じゃあ風邪をひいたときはどうするか。

飯食ったらあっつい風呂に浸かって汗をかきまくったらさっさと寝る。

薬なんぞに頼るから長引くんだ、とも(今のお医者が聞いたら営業妨害だと訴えられそうだな)。

でもこれも確かにその通りで翌々日には復活した。(まぁそのあと家族には次々と感染していくのだが…)

 

 

こんな幼少期を過ごしたので体調が悪いときの過ごし方は

 

とにかく寝るのが一番。

だと思っている。しんどくても寝ることさえできれば(寝ることができないほどの腹痛に襲われたときは病院で腸捻転だと言われた)、あとは体力と免疫が頑張ってくれる。と本気で思っている。

 

 

追記:今週のお題の期間内に投稿が間に合わなかった。だけど自分の過去と向き合うのが目的なのでこれはこれで残しておくことにした。